相対論の正体は「暗算」


暗算が仕込みに


関数の省略を利用したトリックは誰にも気づかれないで仕込みを完了することができるんだ。なにも意識的に省略しなくても基本的な計算を暗算で済ませるだけで、完璧なトリックが出来上がる。しかも、どこを探しても矛盾の原因は見つからない。そんなトリックを作り出しているのが「光速度不変の原理」なんだ。

誰から見ても光が同じ速度に見えるというこの原理では、どのような運動をしている観測者にとっても光速度はだよね。たとえば、

Q 「光速度不変の原理を採用した場合、光と並行して速度で運動する観測者は観測する光速は?」

と聞かれたら、特別な計算をしなくても、

A 「速度だ」

と答えていれば一応正解になる。

実はもうこれで仕込みが完了してるんだ。なんでこれがトリックになるのかって? それは光速度不変の原理で答を出してしまうことが、数学的な間違いを引き起こしているからなんだ。

いつでも光の速度をと主張するためには、必ず光速度不変の原理を採用しなければならない。もし観測者が古典物理学や他の原理を採用していたら違った答になってしまうよね。それを強制的に一定値にそろえているのが光速度不変の原理だから、答のは光速度不変の原理で処理された答ということになる。

数学の世界で、何かの処理をしたときは式にしなければならないのは誰でも知ってるよね。毎回条件が違うのにいつも同じ答なら、この処理は式にしとかないとおかしなことになってしまう。どんな計算をしてるか分からなくても、とにかく原理を採用して処理してあることを関数で残しておかなければならないんだよ。

古典物理学で変化するから一定値のに変換している方程式がわからないうちは、仮の文字や記号が関数を記入して代役を務めさせておく。それを解いたときに初めて方程式が完成するんだ。

たとえば、古典物理学で使っている光速度を大文字の、光速度不変の原理による変換関数を光不変( )と表現した場合は、

光不変(
という式がcを求める作業を表していることになる。

でも光速度不変の原理の場合はいつも単純で同じ答だから、わざわざ関数や式を書かないでも頭の中だけで処理できる。いきなり答のcを書き込むことに誰も疑問を感じないし、そんなめんどくさいことをする理由もわからないしね。当然、暗算で答を出すことがどんな重大な結果を招くかなんて想像もしない。

ということで、チョット考えただけ、いやもっとチュウイブカク考えても誰も関数を書かない。間違いだって文句を言われることもないから結局は省略ししちゃうよね。ところが相対論の場合は他の理論と決定的に違うところがある。それは、

答を出すのが目的じゃなくて、
原理の仕組みを方程式で表現するのが目的
というところ。

光速度不変の原理の話が出てくると光の速度を一定にすることに注意が集中して、相対論を進めている目的よりどうしても原理の答を出すのが先になってしまう。そして原理の答を出すことで、一番肝心な関数を式から消し去っているんだ。その後の仮想実験でようやく方程式を求めるのか目的になる。

はじめから光速度は一定だと決めたんだから、答を求めるのが目的じゃないのは明らか。方程式を見つけるのが目的の相対論では、暗算なんかしないで関数を残しとかなくちゃならなかったんだ。関数を式に記入してなければ、どんな単純な式でも求められなくなる。数学は記入されていないものを求めるようなシクミにはなっていないからね。

冒頭で原理の答cを記入してる相対論は、方程式に変化させる関数c定数cだって言い張って固定しちゃった。だから、仮想実験式が矛盾したときまさか定数cが方程式に変化するなんて発想もできなくて、時空全体をゆがめて調整してしまったんだ。そして、理論が完成したころには暗算で光速度を計算したことなんかすっかり忘れてる。

この流れは必要な関数を削除して発生するトリックの基本で、はじめから求めようとしている対象を省略しているところがミソ。矛盾を解決するために無関係な関数を追加して、気付いた頃には奇妙な計算式が大量発生。

原因を調べようと世界中の天才が寄ってたかって100年間検証しても、消してある関数に気がつかなければ絶対に見破れっこないすごいトリック。逆に抜けてる関数を追加するだけで、あっけないほど簡単にナゾが解けるのも大きな特徴なんだけどね。


ガリレイ変換が基本


光速度にを採用するだけで光速度不変の原理は簡単に表現できるのに、なぜ、わざわざ古典物理学の光速度を修正してからcを出す必要があるのかよくわからない? それは逆にアインシュタイン先生に聞いてみたい点だね。

Q 「なぜ、仮想実験で観測者の速度を採用しているの?」
「速度はどうやって算出してるの?」

相対論で何気なく使っている速度は、ガリレイ変換以外の計算方法がなくてはっきりと定義されていないのにそのまま理論に使われてる。ここで重要なのは数学の座標変換では何も定義しなければ、自然とガリレイ変換を基礎にした変換を使うようにできているということ。数学を利用している物理学も同じこと。

だから、静止している観測者と運動している観測者の相対速度をと設定したら、速度の合成にガリレイ変換を使うことを100%認めたことになるんだ。新しい座標変換理論を構築するはずの相対論でしょっぱなから速度を採用してたら、その時点で新しい理論なんか必要ないよね。

つまり、相対論で仮想実験が始まると同時に、ガリレイ変換が理論の基礎にシッカリ据えられて、ほかの変換理論の入り込むスキはマッタクないということ。光速度不変の原理を解明したかったらガリレイ変換と切り離して考えればよかったのにね。古典物理学の仮想実験からはじめたんだから、光速度にも真っ先にガリレイ変換が適用されるのは当たり前のことなんだ。

光速度不変の原理が正しくても正しくなくても、運動する観測者から見た光速度は古典物理学を使って、一旦はC−vに変換されて、その後で光速度不変の原理で一定値cに調整されることになる。

光不変(C−vc

(ただしは静止系での光速度)

光速度を一定値のcに戻すには、静止系のと同じ値になるように、ガリレイ変換で引かれたをそのまま足して相殺してると考えるのが一番簡単でジョウシキ的な答じゃないかな。光速度不変の原理では誰でもcと答えられるから、ガリレイ変換を意識することはないだろうけどね。

そう考えると、

相対論は暗算をしたために
+v
が記入もれしてる
ということ。

今まで光速度不変の原理が暗算で処理していた個所にこの式を記入するだけで、パラドックスだと思われていた問題がごくありふれた古典物理学の式に戻るのでお試しあれ。気をつけたいのは、ここでなぜ相対速度を補うのかなんてブツリガク的な理由を探し始めたりしないこと。相対論の原因になってる暗算をそのまま数学的に表現するだけでいいんだ。物理的な考えを持ち込むのは数学的な間違いを完全に解決してからにしようね。


式の勘違い


相対論は時空が歪むなんてオカシナ条件を提示してるから今までの実験データは全部無効になって、新しい理論を使った新しい測定方法で実験をやりなおしてる? そんなことはないね。変換方法が見つかっていないうちから、ちゃっかりガリレイ変換で展開してる。それが不自然に思えないのは、いつもお決まりのこんなアプローチを使ってるから。

まず古典物理学の式に速度不変の原理を適用して、

「計算が合わなくなるのはガリレイ変換が間違ってるからだ!」

って主張する。そして光速度不変の原理を成立させる新しい関数を式の先頭に付け足して、

「ガリレイ変換を修正する関数を解いて時空の方程式を解こう」

式全体を修正しちゃう。ガリレイ変換を批判してから新しい式を求めてると、まるでガリレイ変換を使っていないように感じるから不思議だね。

でも、これは間違ったアプローチだよ。代入する時点で修正されたガリレイ変換を使ったのならわかるけど、代入した後にいくら式を修正したって使った事実がキャンセルされるわけじゃないからね。ガリレイ変換と光速度不変の原理が両立することを認めたことになるだけ。これは式のカタチと構成の関係がよくわかっていないと誤解しやすいところ。

よく古典物理学と相対論の関係を、

「速度が十分低い場合は古典物理学は相対論の近似として使える」

なんて説明している物理学者もいるけど、これも数学の式の意味を理解してない証拠。

式全体の構成から見て部分的に使われてる小さな式の方が、実は先に計算される部分だったりする。数学で先に計算するということは全体を支えてる基礎だということ。相対論の式で先に計算処理されているのはガリレイ変換で、見かけ上式の外側のカタチを作ってる相対論の方がその応用ということだよ。

相対論の関数(古典物理学の式相対論の関数(古典物理学の式

※ このカタチでは、ガリレイ変換が優先的に計算される

文字式や数式では加減乗除が基本で、関数はそれを利用しているだけなんだ。だから、たとえ式の先頭に特殊な関数が記入してあっても、数学の基本がその関数の性質に左右されることはありえないよね。これは物理学の式でも同じこと。もしガリレイ変換よりも相対論が優先されるような式を作りたいなら、ガリレイ変換が計算される前に相対論が処理されるような式を作らないとね。

たとえば、

古典物理学の式(相対論の関数古典物理学の式(相対論の関数

※ このカタチでは、相対論的変換が優先的に計算される

てな具合にね。これなら相対論が基礎理論になって先に計算されるね。古典物理学の影響を受ける前に相対論の式が処理される方が相対論の優位性を表してるんだ。

ところが、相対論の関数は式の先頭に記入してるから、古典物理学が優先して処理された後にオマケのように相対論で修正してるのが現実。だからこそ速度が0に近いときには相対論的効果が少なくなるような式になってるんだ。

「速度が十分低い場合は古典物理学は相対論の近似として使える」

という物理学者の主張をもう少し正しい解釈で見直すと・・・

基礎理論である古典物理学の影響で
相対論的効果は消滅する

ってこと。たとえ相対論的効果が消滅したって相対速度を求めるガリレイ変換は有効だよね。これが使えないと相対論的効果も予想できない。結局、古典物理学を基礎理論にしていることに気がついていないだけなんだね。



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