1994年に徳間書店から出版された『「相対論」はやはり間違っていた』に掲載された、「相対論を打ち砕くシルバーハンマー」を公開します。
当時は相対性理論が間違っているという意見はごく少数でした。しかし、相対論を擁護していた教授が論破され、書籍に次々に誤りが見つかるとしだいに状況は逆転してきました。一般の人々にも物理学を歪めている相対論の姿に気付いてもらうには、本稿で述べているような数学的事実を指摘することが一番シンプルで現実的だと思います。
これから起こる物理学の変革には科学者だけでなく一般人の誰もが参加可能です。おそらく物理学の軌道を正常に戻す最後のチャンスでしょう。
相対論を打ち砕くシルバーハンマー (1994)
本稿に関しては,『ビッグバン理論は間違っていた』(コンノケンイチ著 小社刊)の中ですでにその一部が紹介され注目されている。専門家からは「関数の括弧や単位を省略して表記する物理学の慣習を誤解したものでは?」との疑念もあるが,専門家でなく一般人が相対論を学ぼうとする際,日高説の骨子は有益であると判断して,全文を掲載することにしました(編集部注)。
※ この「編集部注」は、出版直前に参加要求してきた竹内薫氏が監修した専門家と編集部両方を演じて創作したものです。
詳細 ○当事者だから証言できる。疑似科学の被害にあった竹内薫氏のデビュー体験談は、自作自演! 科学偽ライターが日本を滅ぼす
シルバーハンマーとは何か
今世紀初頭、一人の天才が発表した壮大なパズルはビッグバンやブラックホール、その他多くの革命的予言で宇宙物理学にも大きな影響を与えました。この解答のないパズルは相対性理論と呼ばれ、多くの学者に称賛される反面、観測と理論の相違は90年代に入ってからもますます深刻になっています。巨額の費用をかけた装置での検証が続けられている相対性理論は本当に検証する価値のある理論なのでしょうか。
そういう私は相対性理論を疑ったことが一度もありません。まったく理解できなかったのです。なぜ間違った式を使っているのか。なぜ物理学者までもが小学生でもわかる数学トリックに騙されてしまうのでしょうか。習慣や思い込みで数式の中の関数を勝手に決定しているのが原因の1つですが、その事実を認めてもらうのは容易なことではないようです。
その関数のトリックを簡単に説明しておきます。私たちは数学の習慣として1倍にする関数を省略しています。これからまったく新しい理論を考えようとするとき、もしもその関数に修正が必要ならば省略せずに式に記入しておきます。しかしその存在そのものに気づいていなければ関数は×1のまま式の中に紛れ込んで、式全体を歪めてしまいます。そして、とても常識では理解できないおかしな理論ができ上がってしまいます。相対性理論こそはこのようなトリックをいくつも使ってできた悪い見本だといえます。
もし理論が構築されたあとで見落とされていた関数が発見されると、一瞬にして理論は崩壊してしまいます、このように理論にとって脅威となる関数をここでは「シルバーハンマー」と呼びます。私たちは高等式に気を取られ、90年にもおよぶ相対性理論の歴史の殆どを目に見える式の検証や拡張に費やしてきました。しかし、そうしているすきに「シルバーハンマー」は相対性理論を捕えるチャンスをうかがっていました。そして遂にその一撃が降り下ろすされようとしています。
20世紀最高の疑似科学、相対性理論があっけないほど簡単に打ち砕かれる姿を目の前にして、それでもあなたは自然の法則を相対性理論に求めるでしょうか。それとも理論を棄て去るでしょうか。
この小論ではさまざまな形の「シルバーハンマー」を紹介します。まず、
- 1 歴史的なE=Mc2が一般に知られているような重要な意味を全く持っていないことを説明します。
- 2 特殊相対性理論が関数の省略を利用した数学トリックであることを示します。
- 3 最後に理論を実証したマイケルソンーモーレーの実験結果が実は古典力学を支持していることを簡単に説明します。
20世紀最大の発見
これほど有名で世間に衝撃を与えた式ははかにないでしょう。「わずかな質量が莫大なエネルギーに等しい」という革命的発見によって従来のエネルギー問題は一気に解決されるとさえ言われています。物理学会で認められた式は多くの研究者と膨大な資金によって実用化への道が探られていますが、E=Mc2に従った物理現象などはこの世に存在しないと私は思います。
1905年1946年に発表されたわずか数ページの論文「質量とエネルギーの等価性の初等的証明」はエネルギーと質量に関する実験データを一切用いずに、仮想実験だけでE=Mc2を導き出しています(巻末資料2参照)。常識的に考えてデータを見ないで関係式が導き出せるはずがありません。いかに天才といえども仮想から真実を証明するのは不可能です。なにかトリックのようなものを使ったと考える方が自然ではないでしょうか。E=Mc2が二〇世紀最高の物理式かそれともトリックかは、この論文を注意深く読めば誰でも分かります。まずはこの検証から始めることにしましょう。
仮定の根拠
この論文には抜き書きされた次ページの式が4つあるだけです。人類の歴史がこのたった四つの式に左右されたと思うと不思議な気がします。ではその中のA式に注目してください。この式を書き換えるとE=Mc2になるのを確認しておきます。
- 両辺をυで割ると、
M+(E/c2)=M´、 - Mを移項して、
E/c2=M1=M´−M - M´−MをM1とすれば、
E/c2=M1 - Eについての式にすれば、E=M1c2またはこれを一般化して、
E=Mc2
「物体の運動量Mυと輻射複合体S、S´の運動量(E=Mc2)υになる」
この仮想実験の結果はいったい何処から得られたのでしょうか。人類の歴史に残る偉大な発見の陰には地道な観測や実験があってしかるべきです。ところが論文にはそのようなデータは一切ありません。実はこの結果は実験データがないから仮定したものなのです。その仮定とは、「質量MにエネルギーEが吸収されたのち、質量M´に増加したと仮定する」というものです。つまり、A式は質量とエネルギーの等価性を最初に記述した式だったのです。そして論文はE=Mc2が導出されたところで終わっています。
仮定した式を変形しただけで証明を終了しているのです。質量とエネルギーの等価性を仮定して、E=Mc2を導いても質量とエネルギーの等価性を証明したことにはなりません。鳥のヒナを小犬と仮定すればやがて犬が空を飛べることが証明されるでしょうが、鳥のヒナが小犬だという証明がされなければ得られた結果は単なる仮定です。つまりE=Mc2は確立された理論から得られた結論ではなく仮定された条件を要約した理論式にすぎないということです。その証拠に論文には仮定の根拠が「考察の最後の結果に矛盾が生じないために必要である」と明記されています。
結局、「エネルギーと質量の等価性」はE=Mc2を成立させるために仮定されただけで、決して証明されたものではないのです。仮定を変形させて証明に利用するこのような方法は特殊相対性理論の論文でも使われている手法で、注意して読まないとつい納得させられてしまいそうになります。この証明法を使えば犬ゾリに乗って月に行くことも可能になるでしょう。
理論式の落し穴
多くの科学者がこの式に驚嘆したのは質量Mにc2がついていたからです。c2に膨大な数値を代入「僅かな物体から膨大なエネルギー」が取り出せると判断し、たった1つのジャガイモで地球のエネルギー危機を救うことを夢見ていたのです。各国の軍事力バランスがカボチャやニンジンで決まり、牛のフンまでもが敵国の脅威となりえるのです。
E=Mc2は仮定した物理的意味を記述しただけの理論式にすぎません。量的要素をまったく含んでいないので単位や数値を入れて使うことはできないのです。式の応用範囲を越えてしまうからです。オームの法則(I=V/R)に好き勝手な単位と数字を入れて使っている人はいないでしょう。E=Mc2も同じで、数式のような使い方をしてはいけないのです。論文のどこにも単位や量を設定している箇所はありません。質量と等価のエネルギーが単位の選び方で変化するのはこれが量的要素を全く含んでいない理論式だからです。
仮に、数式としても一般的なとらえ方には大きな勘違いがあります。次の数式を見てください。
$1=¥100
1ドル=100円を表しています。ここで$、¥は単位(関数)です。100倍している円のはうが当然小さな単位ということは身近な経験からもわかります。E=Mc2が数式だとするとEはMよりc2倍大きな単位だといえます。この点に気をつけてE=Mc2の意味を説明すれば、
「質量の単位Mとc2倍大きいエネルギーの単位Eでエネルギーと質量の等価性を仮定すればE=Mc2となる」
なんとあたりまえなんでしょうか。円かドルに換金できると仮定しただけでは換算レートがわからないように、エネルギーと質量の等価性を仮定しただけでその比率までがわかるはずがないのです。Mが何倍されようとも両辺が等しいのだから、単位が変化するだけです。式の変化分がすべて「単位」の変化に吸収されてしまうのです。この原因も論文のなかで単位を設定しなかったからで、単位が判明するまで関数表示にしておけばこのようなことは起こり得なかったでしょう。単位は変わらないものという先入観がE=Mc2をより一層歴史的な大発見にしている事実も見逃せません。
それでも相対性理論?
1905年に「運動している物体の電気力学について」という論文が発表されました。現在の物理学や宇宙論の基礎となる相対性理論を世に送り出した有名な論文です(巻末資料3参照)。20世紀の物理学を混迷させ、今なお多くの物理学者によって支持されている相対性理論。すべてはこの論文で始まりました、90年もの間、多くの優秀な頭脳によって検証し尽くされたはずの理論に誤りがあるのでしょうか。この理論を発表した人物が意外にも小学校時代に落ちこぼれで算数が苦手だったことが有力なヒントです。誤りがあるとすれば高等式よりむしろ初等式にあると考え、論文の初期設定に着目するのが解答への第一歩となります。
論文には200もの文字式が登揚しますが、ここで検証するのは冒頭から9つ目の式までです。それらの初等式は算数の知識だけで理解できるほど簡単でありながら、相対性理論の性質を決定づけている誤りが幾つも詰め込まれています。それ以降の式は難解で理論の正否を判断するにはあまり参考にならないでしょう。相対性理論の検証に必要なのは莫大な資金をかけて建設された検証装置などではなく、たった1枚の紙と鉛筆で十分なのです。
関数式のトリック
まず関数を使った簡単なトリックを説明します。通常、関数はf=a(x)のように記述されます。この場合、関数fはデータxをa倍にする関数です。この記述方法ではデータxを括弧の中に入れておき、関数fで変換しなければ他の数値と計算できないようにします。これは数学の基本的決まりであり、習慣でもあります。単純に考えて関数fは与えられたデータをa倍する一次関数と限定して、倍数と同じく扱ってもよさそうです。そして倍数ならば同じ関数文字がついたデータどうしは計算しても差し支えないでしょう。
ここで(8)式を見てください。τはx´、y、z、tの関数と定義されているので、紛れもなくτは関数です(この未知の関数τを求めるのが論文の目的です)。(8)式には関数τとそれぞれの括弧に入ったデータが三組あります。(8)式のx´を無限小にとって先ほどの考えで形を変えたのが(9)式です。この式の右辺には関数τの括弧( )がありません。左辺には括弧がありますが、関数のデータを入れる括弧ではなく、計算の順序を表すときの括弧です。つまり(9)式にはデータを入れる括弧は1つもないことになります。(8)式のデータを計算したので括弧はいらなくなったのです。
おかしいと思いませんか? 論文は未知の関数τを求めるために進められているのです。その構成が判明しているのは(8)式よりさらに後の51番目の式で、これから関数τを求めようとしている(9)式の括弧を外せるはずがないのです。関数τが倍数のような一次関数なら可能ですが、もし一次関数なら相対性理論は古典力学に帰結してしまいます。
ここで何が行われたかというと、「関数の括弧と倍数に付ける括弧とを間違って中身を計算してしまった」または「未知関数τを一次関数の求め方でだしてしまった」のです。宝探しに行くと言って銀行の地図を見れば宝は必ず見つかるでしょう。未知関数を求める公式が存在しなくても関数τが求められたのは間違った方法を使ったからです。これで(9)式以降の高等式を検証しなくてもよい理由がおわかりになったのではないかと思います。
同時の出来事
「運動系κの原点から光線が時間笥にX軸に沿ってx´まで放射され、時間τ1に反射されて時間τ2の原点に戻った」。これを光速度不変のもとで式にしたのが(7)式です。左辺は往復にかかった時問、右辺は往路にかかった時間で、運動系では往路と復路に同じ時間がかかったことが先頭の1/2に現れています。同じ事件を定常系から記述すると(8)式になります。やはり左辺は往復にかかった時間、右辺は往路にかかった時間です。そしてここでも先頭には1/2が付記されています。つまり(8)式でも往路と復路に同じ時間がかかったことになっています。2つの式が同じ形をしているのは事件が同時に起こったことを表しています。同じ事件を異なった座標系で見ただけなので、私たちの常識どおりに定常系と運動系の出来事は同時に起こったと解釈してもいいのでしょうか?
論文を湖ると相対性理論の必要性を説くために同時性の概念が光速度不変の条件下で通用しないことが説明されています。同じ出来事が座標系の違いで同時ではなくなるという奇妙な主張です。この主張を取り入れれば(7)式と(8)式は同時に起こった事件ではありえないのです。逃げる泥棒とすれ違うより追いかける方が時間がかかるように、運動している線分上を光が往復すれば復路よりも往路に時間がかかり、運動系の記述とは一致しなくなります。つまり定常系では、1/2にはならず未知の関数になります。(8)式の1/2は座標変換にうっかりして同時性の概念を使ってしまったなごりです。この概念を使わないと座標変換の方法がまだ見つかっていないのでこれ以上先の式には進めなかったはずです。
変化する物差し
「運動する棒ABで光がA点から時刻tAに出発し、t'AにB点で反射して、時刻らに再びAに戻った」と
いう設定で、光速度不変の原理では、棒と同じ運動系の観測者は往路と復路は同じ時開かかかったと主張し、定常系にいる観測者は、往路が(4)式、復跡が(5)式になると主張します。つまり往復の時問に食い違いが出るというのです。この2つの式は古典力学の同時性の概念を否定するために使われていますが、本来光速度不変とガリレイ変換は関係のないものです。光の速度を(c−υ)や(c+υ)を使ってガリレイ変換しているから同時性が崩れてしまったので、不思議なことではありません。
光速度がいかなる座標系でも一定ならば光速度は定数ですが、(c−υ)や(c+υ)で相対速度を求めている光速度は変数といえます(相対性理論の光速度はいったいどちらでしょうか)。論文では光を特別なものと仮定したにもかかわらず式の展間で他のものと混ぜています。これが定数と変数をイコールで結ぶ役割を果たしてパラドックスを作っているのです。この点について「相対性理論は古典力学の修正理論だからいいのだ」とよく反論されますが、関数τは運動系から定常系への変換関数です。決して古典力学から相対性理論への変換関数ではないのです。また「古典力学は近似だ」という相対性理論の主張は近似を使って正解を求めたこの理論の数学的欠陥を裏づけています。
さて、(4)式、(5)式を別の設定にして運動する棒の長さを光で測った点を検証してみましょう。誰から見ても一定のものが測定の手がかりになるのでしょうか。いま走っているヘビをともに移動している観測者Aが10メートルの物差しで測るとします。最初にヘビの頭を、そして1秒後にシッポの末端の目盛りを読み取るとヘビの長さが計算できます。
Aから見るとヘビと物差しの相対速度は0です。運動系の観測者Aは測定が終わるとヘビはちょうど10メートルの大蛇だと言い残して一目散に逃げ出しました。それを聞いた定常系の観測者Bが落ちていた物差しを手に取り走っているヘビを測りました。Bから見るとヘビと物差しの相対速度は秒速9メートルです。ヘビの頭の目盛りを読み取ってから1秒の間にヘビのシッポは物差しの先端方向へ9メートル移動したので、Bはヘビの長さを1メートルだと主張しました。両者からみて一定の物差しで同じヘビを測ったにもかかわらず測定値に差がでてしまいました。このように光でなくとも相対性理論と同じような現象が起こるのは「基準と測定対象が動いた」からで、測定方法に問題があるのです。物差しはA、Bどちらにとっても一定に見えてもヘビにとって一定でなければ意味がないのです。当然、測定に時間をかけるほど誤差は大きくなります。
測定に時間をかける代わりに光の速度を基準にしたのが相対性理論です、言うまでもなく測定対象と光は動いているので先の条件を同時に満たせます。この理論が必ず誰から見ても一定の光でものを測るのはこのトリックを使うためです。この説明を聞いてもヘビに飲み込まれた観測者Bはこう言って大喜びするでしょう。「身長2メートルのこの俺が1メートルのヘビの腹に収まるのはきっと相対論的効果に違いない」と。
速度の公式
私たちは空間を数学的に取り扱うために直交するx軸、y軸、z岫を設定しています。したがって、空間のある一点を記述するには3つのデータが必要です。もし1つでも欠けていれば、空間内のある一点はいつまでも限定できず、数値計算はできません。また、1のデータを単独で扱うこともできません、これはそれぞれのデータがピタゴラスの定理に基づいた変換で統合されてはじめて1つの数値とみなされることによります。
相対性理論ではどうでしょうか。三次元に時間成分tを加えて4つのデータをひと組にして1点を表しています。(8)式の関数τに入っているデータ(x、y、z、t成分)が4つあるのはそのためです。この理論で時問と距離を切り離した計算をすれば当然、変換をされていない、あるいはデータの揃っていない座標値をそのまま距離に置き換えたことになり、式に歪みが生じます。しかし、理論では時間、速度、距離を独立したパラメータとして扱っています。距離を決定するにはx、y、zの三要素、時間を決定するのはtだけです。
(3)式を見てください。この式に運動速度υが含まれていないのは、定常系で光に対してだけ使える関係式であることを意味しています。どの座標でも使える変換式はまだ求められていないのです。もし未知の関数に委ねられているはずの座標変換に(3)式を使えば定常系から運動系への変換関数を省略することに等しくなります。相対性理論は必ずどこかで関数を見落とさないと成立しない理論です。(8)式の時間成分に(3)式の速度の公式を採用しているのもその1つです。
カメ速度一定の法則
ある特別なカメの歩く速度が誰から見ても一定と仮定します。「カメ速度一定の法則」です。ここであなたは世の中の物理法則をこのカメに引きずられるように修正しなければならないと結論するでしょうか。それともカメだけが固有の法則を持っているので他に影響を与えないと結論するでしょうか。日常生活ではカメの動きなど意識していないので後者の答をとるでしょう。しかし、カメでなく光となると前者の答をとってしまうのです。相対性理論が成立するにはカメが物理法則を支配していると結論づけるのと同じ考えを導入しなければならないのです。
もともと「光速度不変の原理」は「光」以外の物理法則に影響を与える要請をしていないので、光速度を一定にするために時間や空間を歪めなくてもよいはずでした。その証拠に光だけを特別にすれば「光速度不変」の要請は難なくクリアできます。もし、速度の単位に光秒を採用すれば
c=1
簡単すぎるようですが原理の要請を満たすにはこれで十分です。ただし、この式は他の式とは完全に切り離すのが条件になります。光に関してだけ数学形態が違っているからです。あるいは関数表示で、
f(c)
としておきます。このように光速度cがほかのどの数値とも計算できないようにするだけで「光速度不変の原理」の要請はみたせるのです。一方、論文ではcを関数表示せずにガリレイ変換に代入しています。時問を歪めて新しい理論(相対性理論)の必要性を主張するためです。
最終解答へむけて
相対性理論の歴史が始まる直前からf(c)は頻繁に使われてきました。しかも長い間、誰にも気づかれずに相対性理論を支え続けてきたのです。そろそろ縁の下の力持ちにもスポットライトをあててあげようではないですか。なぜ相対性理論が数学的に間違っていることに気づかないのかはこの関数の隠れ場所に秘密があるのです。
では「光速度不変の原理」に基づいて、次の質問に答えてみてください。光速度はいかなる座標系でも一定値cとします。
- @速度0、つまり静止している観測者にとって光速度はいくらですか?
- A速度1で運動している観測者にとって光速度はいくらですか?
- B速度υで運動している観測者にとって光速度はいくらですか?
- C速度cで運動している観測者にとって光速度はいくらですか?
光速度不変ではすべてcと答えることができます。あなたは? やはり運動している観測者の速度に関係なく光速度はcですか? それぞれのデータ、0や1、υやcはどうなったのでしょうか。それらをすべて無視しませんでしたか?
ここで新たな運動の法則を記述しようと思ったら、今まで使っていたガリレイ変換との違いを明確にし、行った数学的作業は正確に記述しなければならないはずです。たとえそれが暗算できるほど簡単な計算であってもです。ガリレイ変換では観測者の速度υは削除されませんでしたが、光速度不変の原理では違います。
f(c)が2つのデータのうち観測者の速度υを削除してcだけを採用する関数だということを考慮すればデータにはυも入ります。
f(c、υ)
とするのがより正確な表記でしょう。こうしてはじめて、「観測者の速度に関係なく光速度をcにする」ことが可能なのです。ところが相対性理論には、このような関数は登揚しません。登場しては困るのです。
関数f(c、υ)には、次のような数学的欠陥がともない相対性理論の核を形成しています。もう一度質問に答えてください。光速度不変での光速度を答えるとき、あなたは暗算をしませんでしたか?
相対性理論を理解(?)している人は必ずしているはずです。光速度Cは誰から見てもガリレイ変換されますよと言われれば式を書いていたのに、誰から見ても。一定ですよと言われるとついつい暗算をしてしまうのです、答はcだと。
この暗算こそ90年にわたって架空の理論を支えてきた最大の「シルバーハンマー」、相対性理論の最終解答とも言えるほど重要なものです。無条件に受け入れざるをえなかった基本的な設定のなかに発見を不可能にするトリックが隠されていたのです。相対性理論を理解するにはまず最初にこのトリックにひっかからなければなりませんでした。長い間、人々を悩ませてきた相対性理論の間違いがたった1行で説明できるのです。
「暗算に使った関数が記入されていない」
頭の中に置き忘れた関数f(c、υ)は確実に相対性理論を崩壊させてしまいます。関数の記入で式の展開ができなくなる以前に理論の存在理由そのものがなくなってしまうからです。これにさえ気づいていれば20世紀の膨大な労力が無駄にならずにすんだことでしょう。
私の主張する発見は「関数の括弧や単位を省略して表記する物理学の習慣を誤解したものだ」との反論も考えられます。しかし専門家の隠れたノウハウとして使われている省略記法が重大なミスを生じているのであれば、これは問題です。私はそれを指摘したわけです。参考のため巻末にアインシュタインの論文を、そのままの形で掲載しておきます。
マイケルソン・モーレーの実験について
相対性理論が間違っていることを説明しても「相対性理論は実験で証明された」と、反論される実験の1つにマイケルソン・モーレーの実験があります。この実験は」1887年、相対性理論の発表以前に行われましたが、古典力学の矛盾と光速度不変の必要性をアピールするには最適な事例で、必ずといっていいほど引用されています。
その装置は1つの光源から発せられた光をハーフミラーによって2つの光路に分離し、数回の反射ののちに再び一点に集めるものでした(図5)。そして、装置全体を回転させて、干渉縞の変化から光路長の違いを見出そうとしたのです。
もし、光速度不変でないならば、地球の公転による変化を検出できるはずでしたが、観測の結果、2つの光の干渉縞に変化は認められませんでした。これが今でも光速度不変の立証実験となっているのです。
いくら相対性理論の誤りを証明しようとしてもすでに光速度不変の原理が実証されたと思われているのです。しかし、実験を慎重に検証すれば、一般に知られている結論とは全く反対の結果が装置の原理にも隠されていることがわかります。つまり、相対性理論は100年以上も前に否定されていたのです。
光速度不変は否定されていた
まず、この装置で光速度不変の原理を検証してみます。一般的にこの検証は運動系(地球上の観測者の系)のみで行われてきましたが、定常系からみた点Tには干渉縞が観測されることが予想されます。相対性理論では同時性の概念は否定されているからです。この時点で光速度不変の原理は矛盾しますが、別のアプローチをしてみましょう。
図6のように鏡が設置された台車を想定します。紙面左から光が発射され、鏡に45度の入射角でぶつかり、紙面上方へ反射されたとします。台車が止まっていれば、∠POAは90度です。もし、台車と観測者がx軸方向へ速度υで運動していていれば、∠POA´は90度より小さくなったように見えるでしょう。(図7)
ここで光速度不変に従えば線分OA´は線分OAと同し長さでなければならないので、鏡の角度を変えて2本の線分が等しくなるよう調整してみます。(図8)
光速度不変を立証したマイケルソン・モーレーの装置でも同じようにハーフミラーMは調整されていたのでしょうか。実験装置をどの方向へ向けても変化が観測されなかったとすれば、ハーフミラーMは光線に対して正確に45度の角度を保っていたと結論せざるをえません。そうでなければ、光線A、Bは平行を維持できず、点Tで干渉縞に変化を起こしてしまうからです。つまり、線分OA´と線分OAは同じ長さではなかったことになります。光速度不変の仮説はマイケルソン・モーレーの実験によってすでに否定されていたということです。
奇妙な光
たしかにマイケルソン・モーレーの実験結果は古典力学を否定しています。しかし、その検証に用いられている光は古典力学の光とはまったく違った奇妙な光です。まずこの光について認識しておいた方がよさそうです。
[仮想実験1]
時速100kmで走っている列車に観測者Aが乗っています。列車の外側には観測者の見える位置に丈夫な壁が設置してあり、Aは列車を追い越そうとする物体が壁に衝突する瞬間を観測することができるとします。(作図9)
いま、時速101kmで完全弾性体のボールが列車を追い越そうとしてこの壁にぶつかりました。観測者Aはどのような現象を観測したでしょうか。ただし、空気抵抗や重力は無視します。
- 考察@
- ボールが時速1kmで壁に衝突したのち、時速1kmで後退していくところを観測した。
- 計算は、それぞれ、
- 101−100=1
- 100−101=−1
- 考察A
- ボールが時速1kmで壁に衝突したのち、時速201kmで後退するところを観測した。
- 計算は、
- 101−100=1
- 101+100=201
考察@は自然に想像できますが、考察Aはかなり無理があります。なにしろ、時速1kmのボールが壁に衝突した直後、時速201kmに加速されてしまうのです。もし、現実にこのような現象が起きるとすれば、列車内へのボールの持ち込みは禁止されているでしょう。また、列車の前部へ移動する時にわずかでも体がぶつかると後部へ弾き飛ばされます。こうなると列車に乗るのも命がけです。
実はマイケルソン・モーレーの実験で、古典力学の検証に使われてきたのは考察Aの式です。速度(c−υ)で衝突した光が(c+υ)に加速されているうえ、定常系からに見ると反射の前後とも速度cです。後退している鏡に反射した光はドップラー効果さえ起こしません。これは古典力学の光とは全く異質の光で、「古典物理学否定用の光」なのです。
古典力学に従えば、運動する観測者は、速度(c−υ)の光が鏡に反射した後、速度(−c+υ)に変化するのを見るはずです。
古典力学の検証
さて、それではマイケルソン・モーレーの実験を古典力学で説明しましょう。図10は装置の略図で、A、Bそれぞれの速度はいまのところ未知です。この速度を1つ1つ確実に求めていくことで問題を解決していきます。
先はどの結果からAB、B1が(c−υ)、B2には(−c+υ)が入ります。ただし、B2は符号をそろえて(c−υ)にします。再び図6を見て、光Aの速度について考察してみましょう。台車は速度υで運動しています。遠ざかって行く壁にボールをぶつけると、ボールの速度は減少します。したがって、定常系にいる観測者は鏡に光が衝突した後、光の速度が減少するのを見るでしょう。
ミラーMは45度なので、x軸方向にυだけ移動しても、y軸方向にもυ移動したことになります。x成分、y成分に分解して考えたほうがいいようです。この点に気をつけて図6を修正すると、図11になります。さらにこれを速度υで運動する観測者から見たマイケルソン・モーレーの検証図に適用したのが図12です。いずれも速度を線分の長さで表したものです。この図から図9のA1が(c−υ)だとわかります。ミラーaについてはy成分に変化がないので、光は速度(c−υ)のまま反射され点Tに達します。したがって、A2、A3にも(c−υ)が入ります。
残るはB3だけです。運動系からみると、B2は(c−υ)です。定常系に変換するためυを加えます。しかし、B2は符号を変えていたので、一旦戻します。
(−c+υ)+υ=−c+2υ
再び方向をそろえれば(c−2υ)です。逆向きの速度だから遅く見えるのです。
これを鏡が45度であること、速度υで近づいてくることを考慮して作図すると、図13になります。これを運動系から見た図に修正したのが図14です。結局B3も(c−υ)のようです。
∠POA´ ∠BOTは直角なので、光路長A、Bは全く同じです。速度もすべて(c−υ)でした。したがって、光A、Bは同時に点Tへ到達し、干渉縞の変化は観測されないことになります。これでマイケルソン・モーレーの実験を古典力学だけで説明できました。
あるいはもっと筒単に、運動系から見た速度ABが(c−υ)なら運動量保存の法則からすべてが(c−υ)と結論してもいいでしょう。
商業化した物理学に勇気ある後退はでさるか
現代物理学が相対性理論を必要としたように理論と実験の相違は正しい理論を要求しているように思えます。多くの理論が出ては消えて行く中で、安易に古典力学を放棄するのではなく、その中に「シルバーハンマー」を探すのは根本的な解決方法の1つだと思います。
もし、豚をおだてて木に登らせる研究に税金が浪費されていたら誰もが疑問を抱くでしょう。巨額の資金で建設された豚舎では毎日のように研究者達が真剣に豚をはめ続け、木に登る瞬間を今か今かと待ちわびているのです。数年たって何の成果も得られないと「もっと資金をかければ豚をおだてる方法が見つかるかもしれない」とそれらしいことを言います。木に登るかなどもうどうでもいいのです。誰かがそれがただのことわざだと教えても続けるでしょう。
専門家が理論の正しさを宣伝するなかで、公平な目を待った人達は誤った理論をもう一度検証する重要性を訴えています。相対性理論は物理学ではなく数学トリックですよと教えられても、わずか10分で崩れる理論に著名な先生方がしがみついている姿はあまりにも滑稽です。相対性理論を唱えていながら理論の冒頭を検証しようともしないのはなぜでしょうか。
この章では、相対論の本さえあれば簡単な数学で誤りを検証できることを示しました。多くの問題を引き起こしている相対性理論を「信じる」かそれとも「検証」するかは個人の倫理にかかっているのです。大切なのは1人1人がよく確認して、誤った理論を鵜呑みにしないことです。はたして商業化した現代物理学にも勇気ある後退ができるのでしょうか。天才の出したパズルの本当の解答はそこに隠されているようです。
1日でも早い解決を願いながらこの論考を終わります。